ヴィパッサナー瞑想に参加して

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こんにちは!nao coffeeのなおきです。

普段は旅するカフェ nao coffeeという間借りカフェでコーヒーを淹れたりしています。

今日は「ヴィパッサナー瞑想」のお話。

先日2021年10月27日〜11月7日まで、10日間の瞑想コースである「ヴィパッサナー瞑想」に参加してきました。

10日間、他の参加者とも喋らず目を合わせず、食事の時間以外、朝の4時半から夜の9時まで、1日12時間ひたすら座って瞑想をし続ける。参加費は無料。食事も1日2食美味しい菜食が無料で提供される。

施設代もコースの運営費も全て経験者の寄付だけで賄われている。運営スタッフも先生も調理担当者も全員がボランティア。

こんなコースを行うための専用の施設が、インドを中心に世界で150以上運営されています。建設費も維持費も運営費も全て寄付で賄われます。お金を寄付する人は「より多くの人がこの瞑想法と出会えるように」、その一心で寄付をしています。

あなたはこの瞑想コースに参加してみたいと思いますか?それとも怪しい宗教だと感じて距離を置きますか?

僕は2回の参加を通じて、本当にこの瞑想法を人生を通して続けていきたいと感じました。そして、できる限り多くの人にこの瞑想法に出会ってほしい、試してみてほしいと思っています。

そのために僕にできることはこうして体験を書いて、これまで瞑想に興味がなかった、あるいは瞑想に興味があったけど一歩を踏み出す機会がなかった人に接点を提供すること。そう考えてこのnoteを書き出しています。

書く前に、何をテーマにするか考えました。

  • 具体的にどんな瞑想をするのか。
  • コース中はどんな様子か。
  • 瞑想の理論はどんなものか。
  • 創始者や歴史は。
  • 僕の体と心に何が起こったのか。

語りたいことはたくさんあるけれど、実は調べれてもらえれば、たくさんの人がヴィパッサナー瞑想についてまとめてくれています。だから、僕は僕だけに書けるものを中心に書いていくことにします。

特に、「ヴィパッサナー瞑想の経験を踏まえて、自分の人生を振り返るとどう感じるのか」をメインにまとめてみました。

それではどうぞ。

注意:「この瞑想法では〇〇を〇〇としている」という表現をするかもしれないけれど、全て僕の解釈です。僕はまだこのヴィパッサナー瞑想を教えられるレベルに達していません。でも、できる限りわかりやすくこの考え方と瞑想法の魅力を伝えられるように頑張ってまとめてみます。

ヴィパッサナーのいちばん根っこの教え

まずは、自分の人生について語る前に、ヴィパッサナーが何を目指しているかを整理しておきましょう。

この瞑想法の教えは、けっこうシンプルです。

人生は苦しみに満ちている。だから苦しみのない人生を追い求めることはやめ、どうすれば苦しみに満ちた人生を平穏に歩むことができるかを学ぼう。

無意識にアクセスするとか、幸福を引き寄せるとか、現実的じゃないオカルトなことは言いません。

人が苦しむ理由は〇〇です。だから瞑想して、苦しむ原因を根絶するチカラを身につければいつか苦しみから解放されます。

という、納得感のあるシンプルな教えを授けてくれます。

例えるならこんな感じ

人が太る理由は代謝エネルギーを摂取エネルギーが上回るからです。だから、筋トレをして基礎代謝を上げることで摂取エネルギーよりも代謝量を増やせばいつか痩せることができます。

かなり論理的ですよね。

では、ここから大切なポイント、人が苦しむ理由と、それを克服するチカラとは、何なのかを見ていきましょう。

その前に、前提となるテーマを一つ共有しておきます。

「人生は苦しみに満ちている。」

どう頑張っても、どうあがいても、人は苦しみのない人生を送ることはできない。それが前提です。

どうですか。心にズキンと痛みが走りませんでしたか。そんなことはないはずだ。苦しみから逃れたい。逃れられるはずだ。

僕はそうでした。苦しみに満ちているだなんて、そんなはずはないと、否定したくなります。だって人生には楽しみもある。幸せを感じる瞬間もあるじゃないか。

でも、残念ながら楽しい時間は必ず終わり、幸せは絶対に続きません。どれだけ美味しいものを食べてお腹いっぱいになっても、空腹がまたやってくるように、栄えたものは滅び、人は老い、ものは朽ちます。

いいでしょう。確かに盛者必衰のことわり。それは事実だと認めましょう。

しかしそもそも、なぜ人は苦しむのでしょうか。

苦しみとは、なんなのでしょうか。

結論から言うと、この瞑想法では、苦しみは執着が引き起こすものだと言っています。

自分という存在や、自分のものに対する執着。自分の体、自分の評価、自分の家族・友だち、そして自分の考えに対する執着。

また、人は気持ちいいものを得られたとき、もっと欲しいと思います。それはどんな人でも実感できるはずですよね。

ポテチを食べ始めたら、お腹はもういっぱいなのに、もう一枚、もう一枚と食べ続けてしまう。その欲望のパワーと言ったら凄まじいものです。何かが欲しくて欲しくてたまらない状態。それを渇望と呼びます。

あるいは、気持ちの悪いものと出会ったら、取り除きたくなります。嫌悪感を抱きます。体にしつこい痒みを感じると、嫌な気持ちになりますよね。そして、その感覚をなくそうとします。無意識のうちに体を掻いています。

心は、嫌悪感のない状態を強く欲しがります。体を掻かずにいることは、大変なことです。これもまた、渇望です。

気持ちのいいものも、気持ちの悪いものも、どちらも渇望につながる

渇望は苦しみの原因の一つですが、これだけなら、まだ問題はありませんでした。問題は心が「渇望に執着すること」です。

車が欲しい。渇望が起こりました。そして一生懸命働いて、お金を稼いで車を手に入れました。渇望は満たされたわけです。

でも、しばらくするともっといい車が欲しくなります。あるいは、家が欲しくなったり、海外旅行に行きたくなったり。欲望は、渇望は尽きることがありません。なぜでしょうか。

心は渇望そのものに執着するからです。心にとっては、渇望している状態が、栄養なのです。渇望の対象は何でもいい。車でも、家でも、家族でも、愛でも、酒でも、麻薬でも、どんなものでもいいけれど、満たされても満たされても、また欲しくなります。もっともっと欲しくなります。

その渇望の対象は人によって違うけれど、見えにくいものだと、自尊心や安心、仕事での達成感、人に対する貢献、どんなものでもありえます。

それらに対する執着こそが、苦しみの原因です。

だから、執着しなくなれば、苦しみはなくなる

自分が渇望している対象、あるいは嫌悪している対象の存在に気づき、平静さを保って接することができれば、執着をしないで済む。そうすれば苦しみがなくなる。

そして、その「執着しないようにする」技術を育てる方法が、ヴィパッサナー瞑想である。そういうわけです。

人生は苦しみに満ちているって、悲観的すぎない?

そう感じる人もいるかもしれません。僕もその一人でした。

確かに、苦しいときもあるけれど、それを乗り越えて、幸せに向かって歩んできた。山あり谷ありだったけれど、確実に成長してきたし、その道中で得たもの全てが自分の宝だ。

その通り。僕らは頑張ってきました。その感覚を僕は否定することはできません。

でも、苦しみが人生にたくさんあることは、どうやら事実なのです。

ガリレオ・ガリレイが唱えた地動説は、当時否定されましたが、後世でその正しさが認められたのはご存知の通り。でも、ガリレオが生まれるずっと前から地球は太陽の周りを回り続けていました。地動説はずーっと現実だったけれど、その現実は認められず、人々は天動説を信じていたわけです。

同じように、「人生は苦しみで満ちていること」は僕やあなたがなんと言おうと、現実らしいのです。

そこから目を背けたとしても、現実は現実であり続けます。

僕も初めは受け入れられませんでした。達成感や、ひらめきのような気づきや、自分の成長に伴う喜びを捨てるような気がして。大切な人と過ごす心から落ち着く瞬間を、ずっと維持しようとすることが間違いのように語られると、違和感どころか反発すら感じました。

幸せを追い求める日々

ここから僕の人生に踏み込んでいきましょう。

小中学生の頃の僕は、どう行動すればどんな気持ちになるのか、全くわかっていなかったようです。だからコミュニケーションに関しては、本当に行き当たりばったりでした。

人が褒めてくれたときには、束の間の嬉しさが心を満たしてくれる。大人はいい子だったら僕を認めてくれるみたい。

でも、友だちはどうすれば僕を認めてくれるんだろう。なぜいじめてくるのかもわからないし、どうすれば仲良くなれるのかもわからない。

モヤモヤを抱えながら、同じ人間関係では上手くいかないと察し、すべてをリセットできる県外の高専に進学しました。

高専では、部活をがんばって、ゲームをしていると楽しい。勉強して、ルールを守っておけば大人はうるさく言わないし。友だちともなんとかやれている。

でも、会社に入ってからまた迷子になってしまいました。社会人になった途端、自分が人生の舵を握らなければいけなくなってしまったからです。

なぜ、僕は怒鳴られるんだろう。なぜ、後輩は僕の言うことをわかってくれないんだろう。なぜ、僕の仕事は認められないんだろう。なぜ、なぜ、なぜ。

仕事は当たり前ですが勉強よりも難しく、人に認められるという一瞬の平穏も、簡単には得られない。

僕は航海士として社会人生活を始めたのですが、船乗りには6ヶ月の乗船勤務のあと、3ヶ月の有給休暇があります。

でも、3ヶ月の間、自分が何をすれば喜ぶのかがわからないのです。そして、何も充実していない休みを送っている自分が惨めに思えてくるんです。

短絡的に気持ちよくなれるパチンコがいちばん簡単でした。でもパチンコは人に言えない娯楽。認められることには繋がらない。

もっと、カッコよさそうな趣味を真似てみたりしました。車やゴルフ、ダイビング。どれもこれもやっている時は少し楽しいけど、誰も認めてくれるわけではない。

何も満足にできないうちに、少しずつ仕事でも劣等感が大きくなり、人に認められないことを恐怖に感じるようになりました。できない自分を見られたくない。できる自分を見せたい。

お金もあり、時間もある。仕事もそれなりに評価されている。客観的にはそうでも、仕事していても休んでいても、心の中は火事のようだったんだと思います。

心理学でいう承認欲求と呼ばれるものが心をいっぱいにしていたんでしょう。

ここでひとつ、問いを立ててみましょう。

承認欲求が満たされれば、僕の人生は上手く回っただろうか?

どうでしょうか。どう思いますか?

マズローの欲求5段階説によれば、承認欲求が満たされれば、次は自己実現欲求が芽生えるはずだ。そうすれば、上手くいくかはわからないが、一歩幸せには近づくんじゃないか。

以前の僕だったら、そんなふうに答える気がします。

今の僕ならはっきりと、ノーと答えます。

「承認への渇望が満たされること」はあっても、「渇望が満たされること」はありえない。自己実現欲求に移るかは置いておいて、ココロはずっと何かを渇望し続けるからです。

ココロは「渇望」に執着している

これを理解したとき、僕は衝撃を受けました。

ココロは渇望している状態が好ましいんです。渇望が満たされた平穏な状態はココロにとって好ましくないんです。

僕が承認を求めて苦しみのたうち回っている時、それがココロにとって好ましい環境なんです。

僕は、僕の心はこんなに苦しんでいると思っていたのに、その状態はココロが維持しているだなんて。衝撃でした。

そもそもココロ(カタカナで書いているのは、僕らがイメージする心と明確に区別したいからです)がどういう存在なのか、どうすればコントロールできるのか僕らは誰も知りません。

生まれた時からずっと自分の中にいて、自分と同一の存在だと感じているけれど、一度として自分のココロが持つ感情、思考のどちらもコントロールできたことはありません。

ココロが何者かは分からないけど、大切なのは、ココロは僕が苦しんでいる状態を積極的に維持していること。

ほんとかよ、嘘だろ、って思いませんか。

僕はこの事実を理解できたとき、飛び上がりそうになるほど嬉しかったのですが、その理由はあとで説明します。

一旦は「ほんとかな、そんなに心のこと悪く言うんだな」と思っていても大丈夫。

ひとまず僕の人生に戻りましょう。

僕は他者の承認を渇望し、劣等感を嫌悪して、執着の炎に燃やされながら毎日を過ごしていました。そして、その欲求を満たしてくれることを周囲に求めていました。

趣味に求め、得られなかった。彼女に一方的な安らぎを求め、結婚しようとして、破綻しました。最後に転職で自分の居場所を求めましたが、ダメでした。

側から見れば、東証1部上場の会社に勤め、年収は中の上。順風満帆だったのに、婚約破棄・転職失敗・鬱の一歩手前という見事な人生の転げ落ち方を見せました。26歳でした。

そんなときヴィパッサナー瞑想に出会った(けれど)

なんだか「失敗→苦労→〇〇に出会って成功」という話の流れが、怪しい自己啓発と同じですね…笑

でも事実なのでしょうがないです。もう少しだけお付き合いください。

転職先で挫折し、心を壊し、逃げるように退職したのが、2018年5月のこと。僕は転職先で出会った今の妻である沙由里さんに誘われて、ふたり旅に出ました。

先ほど人生を転げ落ちたと書いていましたが、当時の僕は全くそんなふうに思っていませんでした。

転げ落ちたと認めたら、人に認めてもらえないからです。

僕は自分のやりたいことをやる。次は旅がしたい。だから旅に出るんだ。

そう言い聞かせて旅に出ていたのですが、内心はやっぱり人に認められることを渇望していました。その頃noteにも書いていますが、自分が旅に出ている理由を、十分に説明できる根拠を探していたのです。

仕事を辞めて、旅に出たとしても、僕の渇望するものは変わらない。人からの承認であり、劣等感からの解放でした。

そんな中、ヴィパッサナー瞑想に参加しました。

1回目のヴィパッサナー瞑想では、自分のコンプレックスは乗り越えられること、そして周囲に対して感じていた怒りが本当は贖罪の気持ちだったことに気づきました。

それらの気づきは本当に、本当に感動的で、瞑想しながら静かに泣きました。

それによって、ある程度の劣等感は解消された気がします。自分は自分として存在してもいい。その赦しを得たような気がしたのです。

腹が立つときの心の中

例えば誰かに対して腹が立った時。

僕の心の中はこういう構図になっています。

①自分が嫌な気持ちを抱えている。
②それを解消するために、気持ちをぶつける対象を作り出している。

だから誰かに対して怒ったり、小言を言ったりするときは、自分の嫌な気持ちをぶつける対象がたまたまその誰かになっただけです。

ニュースに怒る人もいるし、ものに当たる人もいる。誰かに嫌なことをされたとしても、その人を非難する理由は自分が作り出している、ということですね。

だから、その嫌な気持ちに意識を向けて気づいていて、それに従わずに待っていれば消える

これは、割とよく言われていることです。苛立ちを感じたら10秒数えよう、なんてのもその一つ。

僕が感じていた周囲への怒りは、劣等感の裏返し。ただただ認めて欲しくて、認めてもらえないことに拗ねていただけ。

でも、こんな時も、ココロは厄介な存在です。

ココロは、平穏に向かうよりも「嫌な気持ちからの解放の渇望」「周囲から認めてもらいたいという渇望」がある状態を維持しようとします。

だから、拗ね続けます。誰かに当たり続けます。10秒数えても苛立ちは消えません。

自分も、周りも不幸にしているのに、ココロはその状態を維持したがるのです。

客観的に振り返ると、「そんな感情的なこと言ってないで建設的な意見を出して改善すればよかったなぁ」って思うんですが、ココロにとって論理的な話や、前向きな意見は要りません。

むしろ改善されてはいけない。前に進んではいけない。

ずっと変わらず、渇望に執着していればいいんです。

すべてココロが仕向けていること

だから、これまでの人生で、僕の心の中がずっと燃え続けていた原因は僕にはなかったのです。

やる気が出なくてYouTubeを見てしまうのも、大当たりを夢見てパチンコに行くのも、ダラダラと二度寝するのも、それを周りのせいにするのも、そんな自分が大嫌いなのも、大嫌いなのに改善できないのも、すべてココロにとって、その状態を維持している方がいいからです。

僕のせいじゃなかったんです。

あなたのせいじゃないんです。

そのことをはっきりと理解したとき、僕はとても、とっても嬉しかった。

もちろん、ダラダラと好きなことをすることを肯定はしません。自分のせいではないとわかったからといって、行動しなければ幸せに近づくことはできません。

僕が苦しんでいたのは、僕が苦しんでいる状況を変えたいと願っても願っても、僕には変えられなかったこと。その無力感でした。どうしても行動を起こせず、だらしない生活をやむなく続け、無意味に時間を失い続けることに、どんどん消耗していきました。

それは、自分のせいではなかった。自分の変えられない性質ではなかった。自分は方法さえ学べば、変わることができる。そのことが、本当に飛び上がるほど嬉しかったのを覚えています。

まるでクルマに乗って、足がアクセルをベタ踏みしているのに気づかずに、猛スピードで走っていたようなものです。ブレーキを踏む方法さえ見つければ、スピードは落とせるんです。

さて、ならば。

ブレーキは、一体どうやって踏むんでしょうか。

ブレーキの踏み方

実際、どうすればいいんでしょう。

僕はココロと30年近く一緒にいて、こいつが生半可なやつじゃないことを理解しています。どんな本を読んでも、動画を見て勉強しても、数日経てば忘れます。

なのに、嫌な思い出は何度でも思い出させるし、達成できない妄想を繰り広げるのは大得意。できない理由はいくつでも思いつくし、自分ができなかったときの正当化もお手のもの。

本当に手強い存在です。

かといって、僕らを苦しめているからといって、ココロを責めても意味はありません。僕らはココロをコントロールすることはできません。

どうやらココロは、与えられた接触に対して、反応しているだけらしいのです。

ここに解決策があります。

五感で感じたもの。そして心の中に浮かぶ思い出、記憶、想像。それらとの接触で生まれた、体に起こる感覚に反応しているだけ。

だから、反応せずにいられれば、ココロは静かになります。

ココロに身を委ねることなく、行動をすることができるようになるのです。

反応しないことを実践する

ヴィパッサナー瞑想では、体に感覚が生じていることに気づき、そして、平静さを維持しながら、観察します。

全ての感覚は生まれ、そして消え去るからです。

それを維持することも、なくすこともできません。

手放すまいと渇望し、取り除こうとして嫌悪するから、執着が始まる。

だから、全ての感覚を平等に、評価せず、観察します。

それが、ヴィパッサナー瞑想です。

1回のヴィパッサナーで生まれ変わったか

ココロが反応しなくなる方法、猛スピードで走るクルマのブレーキを踏む方法を学び、僕は、ついに人生を変える方法を得たと大喜びでした。

とはいえ実際には、すぐに全ての承認欲求がなくなることはありませんでした。

でも、旅に出て、日本を巡り、仕事をせずヨーロッパに1年滞在して、これまで見たことのない建物や景色を見て、美味しいものを食べて、ただのんびりと散歩したこと。

社会のレールから外れた生活を送りながらも、ずっと、沙由里さんが僕を認めてくれていました。そのおかげで、僕は自分を認められるようになり、劣等感から逃げ出さなくても、心を保てるようになりました。

でも、その間、瞑想を続けることはできなかったんです。

ヴィパッサナー瞑想では、10日間コースが終わっても、毎日朝晩2時間の瞑想を続けなさいと言われます。そうしないと、結局戻ってしまうから。

本当に、その通りでした。

ヴィパッサナー瞑想に参加するだけでは変わらない

僕は帰国してきてから札幌に住まいを決め、就職しました。札幌Candyに通い、間借りカフェを始めて、そして北海島プロジェクトに関わらせてもらっています。

札幌に来てからの1年間で、26年間で喋ったのと同じか、それ以上の時間をたくさんの人と話すことに費やしました。誰かの想いを聞いて理解しようとし、自分の想いを話しました。

自分のことを気にかけてくれる人がこんなにたくさんいてくれるなんて、思ったこともありませんでした。自分の文章が、こんなにたくさんの人に影響を与えるなんて、思ってもいませんでした。

そのうちに、成果を出すこと、間借りカフェのオーナーとして認められること、お金を得て、事業主として成功することを、また渇望してしまっていたんです。

自分でもそのことに気づくまで時間がかかりました。

渇望が悪いわけではありません。渇望が生じるのは問題ありません。それは必ず起こるうる現実です。

また、仕事で成果を出そうと努力することには何の問題もありません。

でも、渇望があることに気づかず、渇望に執着してしまっていると、自分も周りも幸せにできないまま、時間だけがたってしまう。

僕は自分の執着にはっきりとは気づいてはいませんでした。

なんとなく、ただなんとなく、また今の自分に必要だろうなと思ったから、2度目の瞑想コースへの参加を決めたのです。

2回目のヴィパッサナーで感じたこと

なぜ瞑想を続けることができなかったのかも、2度目のヴィパッサナー瞑想に参加して、わかりました。

僕は1回目のヴィパッサナー瞑想で大きな気づきを得ました。自分は変わることができる。その喜び、快感を渇望し、執着していたのです。

瞑想をしていて、痛みや、気持ち悪い感覚を嫌悪しないように、平静さを保つことはできました。でも、気づきや閃き、自分の成長といった気持ちいい感覚を得たとき、それをただ観察して消え去るのを待つことはできなかったんです。

自分の人生を変えられる。それほどの嬉しい変化を、僕は、ただの感覚だと切り捨てることができませんでした。

ヴィパッサナー瞑想では「気づき」と「平静さ」の2つが大切だと教わります。

自分の体の感覚に気づき続ける。

この「気づく」はRealizationではなく、Awarenessです。そこにあるものを意識し、注意して、観察し続けること。

そして、どんな感覚にも平静さを保つ。痛くとも気持ちよくとも気持ち悪くとも、反応をしない。

あらゆる感覚は現れて、消えていく。だから平静さをもって反応せずに待ち続ければ、どんな感覚も渇望することなく、執着することなくいられる。

1回目の瞑想では、僕は気持ち悪い感覚に対して、劣等感や怒りに対しては平静さを保つことができました。

でも、心地の良い感覚、成長の実感やひらめき、自分への理解が深まった感覚を手放すことはできませんでした。

2度目の10日を終えた今でも、全てに対してできているとは感じません。

全ての心地よい体験、例えば成長を実感した時、仕事で何かを達成した時、誰かとわかり合えた時、愛を感じた時。

それらに対して、平静さをもって、接し続けなければならない。それが残酷だと、感じてしまっています。世の中は、世界は、残酷だなぁと。

世の中で美徳とされるもの。成長や進歩、愛、友情、感動、努力。それらも一歩取り扱いを間違えれば、渇望や執着の原因になり、苦しみの種になりうる。

感動や喜びは、その瞬間は味わってもいい。でも必ずいつかはなくなる。それを理解しておかなければいけない。

その一見、淡白、いや冷淡にすら感じられる生き方の先にこそ、心の平穏がある、ということ。

現実を見る。足るを知る。

体にどんな感覚が現れるかは、選ぶことができません。

僕が得られる感覚は、感じたものが全て。それが現実。文字通り、現実の全てであり、世界は僕が感じた感覚しか存在しないらしいです。

視野を広げても同じで、僕は今あるもの、持っているものしか持ちえません。心地よいものを欲しがっても、ありません。心地悪いものを嫌がっても、そこにあります。

それは抗えない現実です。その現実に一喜一憂することなく、ただそれを平静に理解し、自分にとって、周りにとって、よい行動をとる。

人生は苦しみに満ちている。その現実を平静さを保ちながら、観察する。その上で周りの人に対して、何ができるだろうかと、考える。

それがヴィパッサナー瞑想の教えです。

もし興味がある方はぜひさらに調べてみてください。本もあります。

最後に

体を観察すればするほど、言葉は有限だなぁと感じます。

このnoteも、たぶん僕が伝えたいことの半分も伝えられない気がします。実際に体験してもらわないと伝わらないでしょう。

ヴィパッサナー瞑想では9日間、誰とも話すことはできないのですが、10日目の昼に沈黙が解除されて、参加者同士でお話をすることが許されます。その時に聞くと、初めて来た人のうち、8割くらいの人はよくわからなかった、もう来ないだろうと言います。

でも、それでいいと思います。僕みたいに、また人生に必要になったら来るでしょう。来ない人は一生来ないでしょう。

このヴィパッサナー瞑想は、S.N.ゴエンカ師というインド系ミャンマー人の方が、ミャンマーで学び、インドに瞑想センターを作り、そこから広まったものです。日本では日本ヴィパッサナー協会という組織がコースを運営しています。

同じヴィパッサナー瞑想を名乗るものは、他にもあります。あるいは、他の瞑想法もたくさんあります。

どれが正しいとか、どれが間違っているかは、僕にはよくわかりません。でも、僕個人の体験を語るなら、このヴィパッサナー瞑想に出会えて、心の底からよかったなぁと思います。

もし興味がある方は、ぜひ一度参加してみてください。

10日間の瞑想コースの参加費は無料です。コースの終了後にボランティアとしての参加を提案されたり、寄付をする機会はありますが、どちらもお願いも強制もされません。

コロナ禍で人数制限がされているため、普段より参加が難しくなっているのが難点です。

じっくりと5日かけて書いたら、10000字を超える長文になってしまいました。ぜひあなたが幸せになる一助になれば嬉しいです。

ここまでお読みいただいて、どうもありがとうございました。

またぜひお会いしましょう。

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